2018/05/10
佐賀城は龍造寺氏によって発展した
佐賀城は、12世紀の後半に龍造寺季喜(すえよし)によって村中城として築かれ、龍造寺氏宗家の本拠として発展しました。
その後、水ヶ江龍造寺氏を興した龍造寺家兼の曾孫であり、戦国大名として有名な龍造寺隆信によって村中水ヶ江両龍造寺氏が統一され、龍造寺隆信の本拠となります。
・・・とすんなり書きましたが、龍造寺隆信の宗家相続はそんなにすんなり進んだわけではありません。っつうか苦難の道のりです。
いきなり一族壊滅
隆信が16歳の時、父周家・祖父家純を含む家兼の息子二人と孫4人が少弐氏重臣の馬場頼周に少弐氏への謀反の嫌疑で誅殺され、水ヶ江龍造寺氏はほぼ壊滅。危うく難を逃れた家兼と隆信は、筑後の名族蒲池氏(歌手の松田聖子さんはこの一族の出身と思われます)の庇護を受けて生き延び、一年後に馬場頼周を討ち復讐を遂げます。ちなみにこの時隆信の曽祖父(こういう言い方を見かけることも余りないですが)家兼は御年92歳。頑張ったねじいちゃん!
これだけだと馬場頼周が極悪人のようにも思えますが、実は馬場頼周にも言い分があります。
龍造寺家兼は元々少弐氏の外様の家臣だったのですが、持ち前の智勇で才覚を現し、少弐氏の筆頭家臣にまで昇り詰めます。
しかし、少弐氏が周防の大内氏に攻められた際に積極的に救援をしなかったため、少弐氏の当主資元は自害に追い込まれてしまうのです。
この時、その前の戦いで大内氏の軍を破っていた家兼には大内氏から謀反の勧誘があったとされています。黒いぜじいちゃん!
ただ、その後も家兼は資元の後を継いだ冬尚に仕えていますので、謀反の意思があったかどうかは不透明なのですが・・・
馬場頼周はこの経緯に義憤を感じ、隆信の父や祖父を討ったとされています。
そしてくじ引き
やっと水ヶ江龍造寺氏の再興も成り、家兼も「隆信を後継者とせよ」と言い遺して亡くなるわけですが、これだけで後継者とはなれませんでした。
一族重臣の意見が割れ、神社でのくじ引きで三度隆信の家督承継を吉とするくじが出て、やっと家督を承継できます。っつってもまだ分家の水ヶ江龍造寺氏の家督なんですけどね。
その後、隆信にとっては絶好のタイミングで本家の24歳の当主が亡くなり、本家家臣の不満を一身に背負いながらやっと、本当にやっと本家の家督を承継するわけです。この時隆信19歳。
その後も後ろ盾だった大内義隆の(陶晴賢の謀反による)死去で大友派の家臣に城を追い出されたりしながら、徐々に勢力を拡大します。
ここで余談
ここまでで1,000文字超える字数書いてんのにまだ余談書くのかよ、ブログは1,000文字くらいが読みやすいって本に書いてたぞとか言う声も聞こえてきますが、筆者が書きたいので書きます。反省はしていない。
何の話かと言うと、「信長の野望 創造」の龍造寺家の進め方です。
賛否両論あるかとは思いますが、筆者の進め方を記します。
Ⅰ.シナリオは「1570年 信長包囲網」以降で
一部ネット上で有名な「五人揃って四天王」こと龍造寺四天王が最初から揃っている最初のシナリオがこれです。最後の江里口信常がなかなか出て来ないんですよね。これ以前のシナリオで始めてもいいんですが、江里口信常出てこんなーと思ってたら他家に仕えてたりしたので_| ̄|○
Ⅱ.開始以降
①まず大友家に全力で土下座して工作しましょう。家宝も予算の範囲内で購入して送りましょう。そして友好度を40まで高めたら即停戦。
この時「せっかく友好度を40まで高めたんだからもう少し頑張って同盟まで・・・」とか思ってはいけません!この後の進め方に影響します。停戦できたらその後も停戦が途切れないよう工作です。当分は土下座です。
※もし工作中に攻められたら全軍でなんとか防戦しましょう。防戦に成功して多少兵力が残っていたら柳河城を陥としましょう。柳河城は龍造寺家の勢力範囲に食い込んでいますが大友家の勢力範囲からは孤立していますので援軍もそうは来れないと思います。
②次に北肥前の松浦氏を攻めましょう。開始早々攻めるとか①と並行して攻めるとかでもいいですが、その際は大友家と接している城からは兵力を動かさないようにしましょう。最小限の兵力で。
③次に南肥前の有馬家を攻めましょう。武将の質と国力からみても余裕な筈ですが、有馬家が島津家と同盟を結んでないかだけは注意して下さい。
④肥前を統一できれば金銭的にも多少余裕ができますので、島津家にも工作しつつ北肥後の阿蘇家を攻めましょう。ここで大友家と同盟を結んでしまっていると、阿蘇家も大友家と同盟を結んでいる(開始後36ヶ月)ため阿蘇家と大友家の同盟が切れるまでは盟友扱いとなり攻められません。注意しましょう。
⑤北肥後を制圧した時点で、もし島津家が南肥後を制圧していないようなら南肥後も攻めましょう。
⑥肥前肥後を制圧できれば国力も人材も充実してきている筈ですので、あとは大友家と結んで島津家とやり合うかその逆ですね。二正面作戦は避けましょう。また不意討ちを食らった時に備えて朝廷献金も忘れずに。公家停戦は無敵です。
ここまでを5~7年でやり遂げ、10~12年で九州統一できればOKです。モタモタしていると織田家が伸びてきます。
分別も久しくすればねまる
隆信の言葉に「分別も久しくすればねまる」というものがあります。
wikipediaなんかでは「ねまるは『腐る』の意で(以下略)」と触れられていましたが、筑後~佐賀の方が使っていた文脈から察するに、どちらかと言うと「腐る」という直接的な意味よりは「どうにもならなくなる」とか「にっちもさっちも行かなくなる」といった、物事が不調になるという意味合いが強いように思います。
つまり、速断が大切だという意味の言葉ですね。
そして鍋島氏へ
というわけで色々あった龍造寺氏ですが、隆信と家臣団によって肥前・肥後・筑前・筑後・豊前に勢力を及ぼすなど最盛期を迎え、隆信も「五州二島の太守」「肥前の熊」と呼ばれます。
が・・・!
島津氏に通じ離反した有馬氏を討伐しようと二万五千~五万(諸説あり)と言われた大軍で島原半島に向かった際、圧倒的な兵力差だったにも関わらず、有馬氏の援軍に来た「戦国一の釣り師」島津家久の伝家の宝刀釣り野伏で隆信や龍造寺四天王が戦死する(木下昌直は生存説有)惨憺たる大敗北を喫します。
その後は隆信の子政家が相続しますが、豊臣政権との関係もあり、「龍造寺の仁王門(仁王門は寺社で金剛力士像を配した門)」と呼ばれた重臣で、隆信の生母を義母としていた鍋島直茂に家督が移ります。
この家督承継については、豊臣秀吉の命令であったことや隆信の弟達重臣も同意していたことなどから反乱などはありませんでしたが、収まらないのは政家とその子高房で、後年高房が自殺騒動を起こしそれに対して鍋島直茂が「おうらみ状」を出すなどなかなかのドロドロっぷりでしたし、「佐賀の化け猫騒動」として有名な所です。
その後、直茂とその子勝茂によって「佐賀城大普請」が行われ、現在まで残る佐賀城の原型となりました。
ここまでが佐賀城の前史です。